八章
             
 彼は、その時を待っていた。ある山の中腹にある洞窟の中に、身を潜めながら、彼は穢
れていくその世界を見て眉を寄せた。
「どうしてっ」
 洞窟の壁をその手が思い切り殴る。ぱらぱらと土屑が落ちる。後悔に染まったその表情
が一転、嘲笑にゆがめる狐の表情になった。
「いいだろう? 最強と謳われた天狐の仔よ。汝が体は我のものだ。もうじき、この世は
亡者の国となる。さすれば、我は」
「やめろ」
 表情がまた一転もう一度、もっと強く壁を殴る。そのまま、彼は膝をついて荒い呼吸を
繰り返す。その身に纏う神気がにごっていく。そして、肩がカタカタを震えだした。
「くくくくく」
 ――震えているのではない。笑いをこらえているようだった。そして、彼はそのまま、
狂ったように笑い続けるのであった。穢れていく、その世界を見て。
 崩壊していく、世界の秩序を見て。
 愛するものが戦いあう、愚かな世界が崩れていくのを見て。
 そして、
     彼女がよみがえるのを夢見て。


 彼は、この頃降り続く雨を憂いていた。現在時刻午前九時。だが、おおよそ九時とは思
えないほどあたりは暗かった。
「これは、応用である訳だから――――」
 数学の授業に耳を傾けながら、彼は、雨が降り始めてから全く姿の見せていない二人の
同級生を思った。
「どこにいんだよ」
 試しに携帯を鳴らしても、『電波の届かないところにいるか電源を――』という女性の
声のアナウンスが繰り返されている。そんな状況が、夕香がさらわれたらしい数週間前か
らずっと続いていた。
「……、藺藤」
 その呟きは誰にも聞かれずに虚空に解けていった。今は授業中だ。集中しなければ。雨
が降り続ける外を見ていた視線を無理やり黒板に移すと教師と目が合ってしまった。黒板
を見て問題を見てみると解けないことはない。腹に覚悟決めて求めているであろう式を頭
に浮かべた。
「和弥。これ、解いてみろ」
 指名を受けて立ち上がるとかくりと膝から力が抜けた。貧血でも起こしたかと両手を机
の上についたがその肘も体重を支えきれずにかくりと折れる。がったんと椅子に座り込ん
で突然の目眩と頭痛を耐えていた。
「大丈夫か? どうした、和弥?」
 数学の教諭が近づいてくる。机に突っ伏して眉を寄せて乱れる息を整えようとしても整
えられなかった。
「すいません。調子、悪いみたいです。保健室、行ってきます」
 よろよろと立ち上がり教室の外に出た途端、ふっと意識が掻き消えてしまった。最後に
聞いたのは教諭の呼ぶ声と廊下のタイルの冷たさとぞっとする何か肌を刺す硬質の冷たさ
だった。
 はっと、目を覚ました。見える天井と辺りを見回して保健室でも病院でもないと判断し
て眉を寄せた。
「気がついたか。少年」
 脇に座っていたらしい女が口を開いた。どこかで見たことのある面差し。そういえば、
月夜の担当上官だったらしいなとぼんやり思って、なぜ自分の隣にいるのだろうかと思っ
た。
「陰の気に冒されたのだ。わかるよな。この気」
 雨に紛れ込んだ気に冒されたらしい。一度月夜がらみで入院したときにもいた人だった
なと思い出して、早急に講義された内容を思い出した。
「藺藤達がたまに行く、異界の気、ですか?」
「ああ。頭の回転と肝が据わっているようだな」
「そんなこといわれてもうれしくありません」
 そういうと彼は起き上がった。部屋に満ちる匂いは女の匂いではない。どっちかといっ
たら親父臭いなと判断して首を傾げた。
「親父臭くてすまなかったな」
 ぬっとキッチンのほうから現れた男に驚いてベッドの端に飛びのいた。
「薬居、コレでいいのか?」
 と、差し出されたのはいかにも体に悪そうな、どぶ色の液体だった。悪臭を放つそれに
顔を引きつらせてベッドの端に移動してカタカタと震えて首をフルフルと振った。
「可哀相にな」
 男のその言葉にその液体は飲まされるものらしいと悟ってしまって部屋から逃げたいと
願ったがそう都合良くいくわけが無い。
「体の中に残った陰の気を払わなければな。飲め」
 わざとなのか、透明のガラスコップにそれを注がれ差し出された。やだやだと首を振っ
ていると逃げられないように男が羽交い絞めをしてきた。
「うらむな。こうしなければ俺が後で怖い目見る」
 実際、遼子の命でコレを作っているとき何度も吐きそうになったとは言わずに、逃げら
れないようにした。そして男は、大人二人に、拷問のようなその液体を無理やり口を開か
され嗚咽をこらえさせられながらそれを飲まされた和弥を心から哀れんだ。
 苦い薬を飲まされた幼子のように泣き出しそうな和弥をみて男は和弥の頭をぽんぽんと
撫でてやった。もう一度と意気込んでいる遼子の手から飲みかけのコップを取り上げて式
神である朱雀に始末を命じた。
 コップを持つまでいたって普通だった朱雀だが、コップを持って硬直してしまった。仮
にも四神の一人だ。朱雀ではなく玄武を出したほうが良かったかと思いつつも新しいコッ
プを出して水をついでやると和弥に渡した。
「ちょ」
「自分で飲んでみろ。普通に飲めるのは、……そうだな、作りなれているお前だけだぞ」
「そうか?」
 きょとんと首を傾げた遼子に、唖然とした二人は、遼子に背を向けてひそひそと何かを
話し始めた。
「異常ですよね?」
「ああ。完全に異常だ。ありえない」
「戻したいぐらいなんですけど」
「やるならあそこの小部屋に」
「了解しました」
 と、初対面であるのに意気投合して二人でこそこそと話しているのは単にそれを聞かれ
たら何をされるかわからないという本能的な恐怖からであった。
「まあ、私の味覚はいいでしょう。会長。ここまで事態が進行してるとなると、まずいん
じゃないですか?」
「それはそうだが」
 と、いきなりまじめなモードに入った二人にきょとんとしながら和弥は首を傾げた。
「事態?」
「藺藤が巻き込まれている件だ。さすがに徒人に影響が出てきたならな」
「雨ですか?」
 聞くと二人とも頷いた。驚いた顔をしているが驚く事だろうかとふと思った。
「ああ。よくわかったな」
「なんとなく、そう思ったんです。……何が起こってるんですか?」
 その言葉に男が溜め息をついて遼子は目を伏せた。
「実は、今、異界のほうでいろいろあってな。あっちの陰の気がこちらに、こちらの陽の
気があちらに行っている状況なんだ」
「どういうことですか?」
「つまり、二つの世界に相反する気が雨となって穢したり、浄化したりしているんだ。そ
うすれば、世界の崩壊が訪れる。……。黄泉比良坂から、醜女や、黄泉の軍勢がここに攻
め入り、ここは、生者も無い所に化すだろう」
 一度、古事記や日本書紀の類は読んだことがある。その中の知識を引っ張り出して眉を
寄せた。
「唯でさえ、もう、伊邪那岐命の加護が薄まり、道敷大神の加護が強くなっている、この
ときであるのに」
「道敷大神?」
「黄泉に下った、伊邪那美命の事だ。お前を巻き込むつもりはなかったのだがな。少し鍛
え甲斐のある少年っぽいからな。すこし、使わせてもらうか」
「扱くのほどほどにしろよ」
「わかってる。会長は」
「とりあえず、あいつらの行方を当たる。絶対異界だと思うんだがな」
 肩をすくめて返された言葉にふっと笑って窓の外を見やった。
「水神様の加護もあるようだ」
 一気に晴れた空を指したその言葉に目を瞬かせると男はふっと笑って外に出た。そして、
すぐに気配が掻き消えた。
「さあ、やるか」
「やるって何を」
 部屋に残り、張り切った風の遼子の声に和弥は怯えた声で表情を引きつらせた。それを
見て遼子はふっと笑って和弥の襟首をつかんで外に出た。そこで、和弥がどんな目にあっ
たのかはいうまでもないだろう。
 しいて言うならば、月夜達が三年間でやる内容を一週間ほどでみっちりと仕込まれたの
だった。その後の和弥の顔はそれこそ言うまでもなく、やせこけていた。



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